わたしが生まれた頃に公開され、わずか4日で打ち切りになり、もちろん日本での公開もなかった幻の映画。

まさか自分の生活圏内の映画館でみれるなんて。
冒頭に映される「4Kによるデジタル復元」に尽力した方々の説明。すでに胸が熱くなります。

エドワード・ヤン監督の作品は3本目。
そのどれもが光と影がやはり絶妙でストーリー序盤、郵便配達とアジンのやり取りが影だけで表されるシーンはエドワード・ヤンならではという感じもして「どうも、ヤンです。」と挨拶されているかのようでした。




時代背景は違うのですが「クーリンチェ少年殺人事件」と共通する部分があるきがした。一つ目は「赤」の使い方。
これは、「クーリンチェ~」よりも多く出てきているのではないかと思います。
アジンの洋服は意図して、ほとんどが赤い服。

音楽は、若者が憂さを晴らすかのように踊り狂うシーンにかかるのは「フットルース」。
「クーリンチェ」ではリトル・プレスリーが「エルビス・プレスリー」を歌い盛り上がる。
アメリカのポップカルチャーを似たようなシーンで入れている気がした。

そして、日本の文化というか、くすりと笑ってしまうような「日本」を入れてくる。
この「台北ストーリー」は「太陽にほえろ」をまねているのかというシーン。
(これは、劇場内のお客様がほぼ全員笑っていたのではないかな。かなり笑い声が聞こえてきた)
「クーリンチェ」はハニーの衣装が、「ばんから」。

この「日本のカルチャー」がちょっと入る意味のようなものは、作品の中に答えのようなものがあり、当時の台湾の若者のアメリカや日本に対する言動などで表現されている。


そして、何よりわたしが驚いたのがこの二つ映画の結末。

こんなにもリンクしていたなんて思いもしなかった。
「女」が乱す結末。
「若い衝動」がもたらす悲劇。

「台北ストーリー」の原題「青梅竹馬」。
「男女の幼馴染」という意味らしく、それはアリョンとアジンを指す言葉。
それを知り思ったのが、アジンが「男女」を意識したときにはこの悲劇は始まっていたように感じた。
「クーリンチェ」もシャオミンの「女」要素がすべての引き金。

俯瞰して観ると、時代背景やたくさんのちりばめられたため息がでるような映像美、閉塞感や倦怠感が一気に情報として入ってくるけれど、結局は「男女」のシンプルな話のように思う。

だからこそ、これほどシンプルな題材を素晴らしいバランス感覚でたくさんの要素を絡み合わせているということに本当に驚く。

さらに、音楽。
なんと、世界的チェリストのヨーヨー・マ。

彼の名を知ったのは数ヶ月前に同じ劇場で公開していた「ヨーヨーマと旅するシルクロード」というドキュメンタリー映画。
観ていないことを本当に後悔している。

そして、アジン演じるツァイ・チンは、この映画のあとエドワード・ヤンの妻になる。最終的にはお別れしてしまうみたいだけど。

そしてそして、アリョン演じるのは、大好きなホウ・シャオシェン。

この点と点が繋ぎ合わさるような感覚がとても好きだ。
わたしはそんな要素も映画を楽しむひとつになっている。


ただ、ホウ・シャオシェン監督は、思いのほか時任三郎に似ているし、思いのほか、かまいたちの山内に似ているのだ。
これは誤算だった。
かまいたちの山内に見えるシーンは、注意散漫になり内容が入ってこない。